シーダ・バーンは、
私たち家族のために、建てた家です。
そして、この木の家を杉(シーダー)の納屋(バーン)と名づけました。
季節の草花が咲き乱れる小さな前庭からポーチを通って、
大きな木の扉を開けたところが玄関土間。
「どうぞ、靴のままでお入りください。」
考えているのは、木・木組み、伝統工法についてです。木のもっている粘りをうまく引き出し、蟻(あり)がけや追っかけ大栓(だいせん)、
熟知している棟梁(とうりょう)がいます。私たちが造る「木の家」は、99パセント、日本の山で育った杉です。
自然素材の漆喰(しっくい)や珪藻土(けいそうど)に精通している左官職人がいます。
貫構造を利用した欄間(らんま)・中窓(なかまど)・地窓(じまど)の3段窓の開け閉めで、風の入り具合を調整しながら、季節の木の葉のささやきや軒を打つ雨音等を、楽しめたらという思いでスタートしました。柱・梁は太く、野地・床は分厚く、家具や建具までも分け隔てなく杉板をふんだんに使い、瓦屋根、深い軒、開放的な縁側や窓、そして土間。
なにより「労」を惜しまない手仕事の集団がいます。曖昧さを整理しながら、工事の進捗をオープンにし、現場の変化に柔軟に対応していきます。
そして決算まで可視化できます。もちろん、リノベーションも同じです。
手仕事の繰り返しにより、新しくて懐かしい住まいづくりを展開しています。
百聞は一見にしかず、シーダ・バーンにぜひお訪ね下さい。
1998年シーダ・バーンは、オールドシーダ・バーンの北側に建てられました。いわゆる「隣接同居」です。北側はトイレ、洗面、風呂小屋でした。高齢の所長のご両親を見守るためにあえて塀とかは造りませんでした。
ここには「開かずの小窓」(下の写真4コマ左、灯りがついている所)がありました。こちらは障子と木の雨戸。あちらは、錆びた鉄の防犯格子とこの小窓。今の通り土間になる空間がありました。、一間半から二間ぐらいでしょうか。
あるとき、その「開かずの小窓が」あきました。洗面をしていた父上が、「入れ歯を落とした・・・」と。窓越しの会話なんてしたことがありませんでした。余程困ったんでしょう。
阪神淡路大震災でも窓ガラスが数枚割れたぐらいなのに、2002年の春にオールドシーダ・バーンの解体がありました。残念。
オールドシーダ・バーンは、名前の通り、シーダ・バーンのふるさとです。
そのオールドシー・バーンの北側を切断して、事務所にしました。シーダ・バーンにはコジローと、アヤコという番ネコがいて、シーダ・バーンの軒先とオールドシーダ・バーンの下屋を上手に行き来していました。この下屋がなくなったら、2人にとっては、大変なことにななります。「リノベーション」です。まわりからは、新しくした方が「早く」て「安く」済むと。モダニズムを勉強した所長は、新築にすると自分が勉強してきたモダニズムが入ってしまうので、あくまで、「元」の形にこだわりました。ワイワイ、ガヤガヤにぎやかなリニューアル作業になりました。
切断したオールドシーダ・バーンの北側とシーダ・バーンの南側の軒先に、櫓(やぐら)をくみ、屋根をかけました。「もう一つの空間 通り土間」の誕生です。その後この考え方は、他方面にわたっていきます。
切断した部分の屋根瓦は土のせ葺きでしたので、保存して、アトリエと、三馬力半さんの瓦に再利用しました。瓦のおおきさが色々でした。土が乾燥していて、しかも春先の作業でしたので、土が舞い上がっていました。昔はルーフィング代わりに樹皮がしいてありました。
通り土間の小梁はオールドシーダ・バーンの梁(はり)材を再利用しました。本棚、金物ダンス、テーブルも造りました。あの想い出深い「開かずの小窓」は、、ショケースの建具に再利用しました。
特に北西側の風呂小屋は、オールドシーダ・バーンの増築部分でしたので、屋根瓦が複雑な形をしていました。役もんの瓦、小瓦の袖瓦等、たくさん使っていました。現在は、半屋外になって駐車場として使っています。オールドシーダ・バーンで主役をはっていた建具も再利用しました。
素材はひのきか秋田杉です。色はまちまちです。柿渋やベンガラを使って、違和感がないよう試みました。
今回(2014年)、今までの資料をデジタル化することによって、アトリエの使い勝手もかわりました。
所長の居場所になり、打ち合わせ等に使っています。
障子も張り直そうとしましたが、昔の所員さんたちがいたころや、コジローがなんとか、障子にしがみつこうとした痕が残っているので、ここはそのまま。一年中、花盛りです。
また、勤務形態も在宅勤務です。結婚や出産、介護等で、遠方に住むようになり、今までの仕事を止めざるを得ない時があります。事務所にとって、大変な損失です。在宅で仕事を引き続けられるようしています。