芦屋生まれに違いはないのですが,生まれて間もなく,
父の仕事関係で物心つかぬまま東京へ.
引越し先は旧住居表示,港区西久保巴町という下町でした
現在で言えば,神谷町から虎ノ門へ向かう営団地下鉄の上。
地上は森ビルなどの林立する屈指のオフィス街です.
当時はどんなだったかというと,家の向かいは肉屋(というか私にとってはコロッケ屋)。左隣は駄菓子屋.
(2個1円というやつを子供ながら直に買う)右隣が茶店.(トコロテンとかカキ氷を座って食べられた)
あとは、左斜め向かいが床屋(散髪屋)で、右向かいは銭湯.
商店街の外れに位置した木造下見板貼り2階建てに,
社宅として一家が住み込んだわけです.現在はそんな風景も完璧に蘇ってこない程様変わりしました.
しかし,面白いことに今現在の地図を見ると,道や入り組んだ路地だけは全然変わっていないんです.
敷地がまとまって地上げされ大きなビルが建っても,道路は短期間に手を付けるわけにはいかなかったのでしょう.ここで寝起きしてここを通って遊んだりしたと,懐かしく話せるわけです.
ダウンタウンの活気のある雰囲気や人の往来や町工場の匂いが蘇ってきます.もし再開発されていたなら
,路地どころか道までもが変わりますから,こうはいきません.三つ子の魂百まで.同じように,私の価値観やスケール感覚は,今も体内にあって根幹をなしています。.
私の場合,下町育ちの少年が後に高級住宅都市芦屋に戻り,多感な青少年時代(小学校5年2学期から高校卒業までの6年余)を過ごすことになるわけです.対極をなす街並みの中での暮らしが私の価値観をさらに複合的にしているかもしれません.
芦屋の住宅街に建つシーダ・バーンは,周囲の街並みとの連続性がいったん途切れ,小さいながらも一際目立っています.高級感とは縁遠い簡素な木造で親しみやすく,何か懐かしさを感じさせるのは、そんな私の体験が影響しているのかもしれません.
週刊文春で連載された「家の履歴書」にならって,記憶の断片から巴町の家の間取り図を描いてみました.改めて認識したことは,
①3.5間×5間の総2階建て 述べ床35坪の結構広い家だったということ
②水廻りがコンパクトにまとめられ合理的,無駄がい.今のプランニング手法と全く変わっていないようです.
③ただLDKという暮らし方ではなかった.戦後すぐですから,近代住居理論はまだ庶民住宅には普及していなかったというところでしょうか.洋間として応接間、台所,2階個室があって他は和室というのはむしろ近代和風を倣ったのではないかと見受けました.
④庭に面した部屋の記憶があまりなかったので多分女中さんがこの部屋に暮らしていたようにも思います.
⑤動線南側に駄菓子屋が隣接し(多分2階建て)お日様が燦々と降り注ぐことはなかったこと.そういえば1階の南側は暗くてじめじめした匂いを覚えています..
⑥東庭は多少広いが木造の物置があった.その屋上に物干し場(階段で上下)があった.
⑦小さな地震が頻繁にあった.風呂場のモルタルには亀裂が入ったまま,手直しされた記憶はない.
所詮社宅住まいの分際で,あまり住み心地がいいという訳でもなく,
芦屋に立派な家を残して来ているわけですから,家に手を加えるということもなかったのです.
幼稚園から小学校へ,遊び友達や街の探検など,私自身も家にいるよりも街に遊ぶ時代だったのかもしれません。
1学期の最後の学校で同級生からお別れの手紙をもらって,芦屋へと旅立ったのです.